戦後、一時の食糧難といわれた時期にお米の代わりにジャガイモなどが多く食されていました。
当時、佐野地域では時代背景もあってか、町中いたるところにジャガイモ畑が広がっていました。
食卓ではジャガイモ料理のオンパレードであったことは想像できます。
どのご時世でも商人は強いものです。
なんとリヤカーでジャガイモをフライにして、移動販売を始めたということです。
それも食べやすいように串に刺して。
当たり前の食卓料理を串に刺して販売する。
フライは簡単なようで手間が掛かります。
夕暮れ時にはずいぶんと繁盛したようです。
それがいもフライの元祖と言われています。
いもフライのルーツをたどっていくと、必ず行き当たるのが「蝶野さん」という人物。
リヤカーに道具一式を乗せ、いつもの街角で、いつもの客に、揚げたてを差し出した。中高年の市民の方には、いもフライというと
蝶野さんの姿を思い出す人が多いようです。
蝶野さんとは、昭和58年5月28日、88歳で亡くなった七軒町の方です。
長女の方によると、戦前から夏は枝豆をゆでて、天びん棒で売り歩いていたということです。
いもフライは、村祭りや運動会があるとリヤカーで行って、その場で揚げて売っていたということ。
戦時中は、ジャガイモが配給制になり、いもフライは休業。復活したのは、昭和26年11月3日の西中学校での市民体育祭だった。
蝶野さんはマイペースで温厚、義理堅く、日本酒が好きでヘビースモーカーだった。
ジャガイモを茹で、皮をむくのは家人に任せるが、それ以降の作業は全て一人でやっていて、
午前6時頃から10時頃まで仕込み、雨の日以外は11時に七軒町の自宅を出発。帰るのは午後5時か6時。
コースはまず天明町に行き、佐野厄除大使の金井上町、さらに金屋仲町、佐野女子高の金屋下町へとリヤカーを引いていたようです。
家に買いに来る人もいたようだが、そんな時は「駄目だ、そんなに買っちゃ。女工さんが待ってんだから」と言っていました。
昔このあたりには機屋さんが多く女工さんたちが蝶野さんが来るのを待っていたためです。
身長150センチといった小柄だった蝶野さんが引くリヤカーには、釜、かまど、燃料のまきの他、菜種油、ブレンドしたソース、水、小麦粉、
パン粉などを満載していました。
働き者だった明治男の体は丈夫で、88歳になっても元気に働いていたようです。
20店舗
平成15年4月
事務局としては、各市町村での体験教室や講習を行い、
佐野名物いもフライのアピールに努める。
栃木県佐野市田島町168-1
TEL:0283-22-0905 FAX:0283-22-6680